Wellcome to JA5IT

私のアマチュア無線歴

私のアマチュア無線歴

ラジオ少年

 ずいぶん昔のことなので、記憶がかなり怪しいのですが、中学1年の時に家にあった4球ラジオ(当時は並四ラジオと言っていたらしい)再生検波のラジオがピーピーガーガーとなるばかりで、まともに放送が受からないので、何とかならないのかと、訳が分からないまま分解したのが始まりでした。

 回路図などあるわけでもなく、元に戻せるように、部品や配線のようすをスケッチして、半田ゴテなるものを買ってきて、分解したのでした。
分解後に半田ゴテでもとに戻したのですが、はたして、理屈も何もしらないでしたのですから、うまくいくはずがないのでした。。

 と言うわけで、ラジオ少年時代が始まりました。

アマチュア無線を始めた動機

 遠い親戚にアマチュア無線をしている方がいるとの話を聞きつけ訪問しました。
確か、JA5CS局 だったと思います。
自宅から十数キロ離れた阿南市にお住まいがあり、自転車で走って1時間余り。目的地に何百メートルか近づくと10数メートルの孟宗竹が2本、見えてきました。さらに近づくと竹に張り渡して、アンテナ線が見えてきました。
後で分かったことですが、ハシゴがたのフィーダで起電するツエッペリン型の7MHz帯用のアンテナでした。

 シャックを見せてもらい、実際にQSOを実演してくれました。15才の私には夢のような光景と体験でした。私もアマチュア無線をやるぞ!と心に決めた瞬間でした。
アマチュア無線局をするための方法や、無線従事者免許が必要なことなどを教えてもらいました。アマチュア局の開局、無線機、アンテナの建設はもちろん、私の人生に大きな影響を与えてくれた方でした。

映画 「空と海との間に」

 何で知ったのかは今になって分からないのですが、徳島市でこの映画が上映されていて、その映画館でアマチュア無線の公開実験をしているとの情報を得て、見に行きました。
自宅から20km以上離れているのですが、自転車をこいで見に行ったのでした。
ストーリーは今でも覚えていて、だいたいこんなようでした。

 アフリカの西海岸沖合で操業していた漁船の乗り組員が高熱を出し、アマチュア無線でモールスで助けを求めて求めました。これを受信したアマチュア局がワクチンを求めて活動します。ソビエト連邦のモスクワからワクチンを調達できて、飛行機でワクチンを輸送、漁船に投下し、漁船員の命を救う。というものでした。

 半世紀以上の映画でしたが、アマチュア無線の黎明期でしたし、当時、欧米とソ連とが冷戦時代であった中で、アマチュア無線の活躍を描いた感動の映画でした。映画館の中でアマチュア無線の公開実験も行われていて、ますますアマチュア無線の感動を強くしたのでした。

二級アマチュア無線技士を受験

 高校2年生6月ごろだったと思います。
大阪の守口市にある大阪電気通信学校(現在の大阪電気通信大学)へ2級アマチュア無線技士の受験にいきました。

 生まれて初めての一人旅、それも旅館なるものに泊まるのも始めて。
小松島港から関西汽船で天保山に到着。天保山から京阪電車の始発駅だった天満橋まで歩いて行ったのか、路面電車で行ったのかはっきりした記憶はありません。

 守口駅に到着して会場の大阪電気通信学校を下見に行きました。無線の鉄塔やアンテナが幾つも立っており、すごいナーと思ったのを覚えています。
会場が分かったので、宿泊する場所を駅前付近で探しました。
安そうな宿を探して泊めてもらうことにしました。始めての経験なので、明日、国家試験を受けること、四国の徳島から一人で着たことなどを話すと快く歓迎してくれました。

 翌日、会場に出かけ受験。
1ケ月後合格通知が届きました。天にも昇る気持ち。
いよいよアマチュア無線局開局のための第一歩を歩み始めました。

無線機の製作を開始

無線機の部品集め

  アマチュア無線技士の免許が降りたので、無線機を製作するための部品や道具を購入するための費用を親にねだって出してもらいました。当時のお金で3万円貰ったように思います。今の貨幣価値からすると30万円程度にはなったのではないかと思います。よく3万円も出してくれたと今になって思いますし、感謝しています。

 3万円を手にして、予算内に出来上がるようにあちこち探し歩きました。
まず、送信機のケース。これは親戚の無線機、先に紹介した映画館で公開実験で見た無線機のが2段のアンプケースに組み込まれていて、そのイメージが焼き付いていました。

 で、それを求めて徳島市の「徳島ラジオ商会」に買い出しに行きました。
自宅から20km余りあるんですが、ものともせず自転車をこいで行きました。
徳島ラジオ商会は徳島駅前、現在の阿波観光ホテルの左側にありました。
たしかJA5BR局だったと思います。

 ここで2段のアンプケースを購入、自転車の荷台にくくりつけ、20kmの道のりを意気揚々帰ってきました。
その後にも徳島ラジオ商会に何度か買い出しに訪問し、穴を開けるためのハンドドリル、リーマー、高1中2のオールバンド受信機を作るためのコイルキット、バーニアダイアル、真空管、ソケット、穴無しアルミシャーシ、アルミ板などの部品を買い込みました。

 送信用の807真空管、送信用タンク回路に使う特殊バリコンやタンクコイルなどはCQ誌の広告を調べて現金書留めで注文しました。
特に苦労したのは、送信用の高圧電源トランスと整流回路用の部品でした。
電気屋(ラジオ屋)さんを渡り歩いて、中古の高圧の電源トランス、平滑用オイルコンデンサー、整流管等を手に入れました。新品だと高価で予算オーバーになることがわかったからです。特に高圧のペーパコンデンサーは今でも鮮明に覚えています。四角い羊羹のような形をしており、容量は8マイクロファラッド、耐圧1000Vだったと思います。振るとポチャポチャと音がして、オイルが入っていることが分かりました。電解コンデンサーなるものはなかった時代です。

 ほぼ、製作のための部品がそろってきたので、製作を始めました。
使った工具は、ハンドドリル、リーマー、シャーシパンチ(真空管ソケットや中間周波トランスの穴開に使った)と半田ゴテだけでした。
測定器なるものは全くありません。全て感と受信機だけで作り上げ調整しました。
参考資料はCQ誌だけでした。

 VFOは6BA6発振ー6AR5緩衝増幅。送信機は水晶発振6L6-終段807の構成でした。送信機は水晶発振なので、正確に3.5MHzと2倍の7MHzはほとんど苦労無しに電波が出せたのです。
 発振は3025KHzの水晶を1個購入、これを基準にして全て作ったように思います。VFOが一番心配で苦労しました。手巻きのコイル、これに固定のコンデンサー、タイト製に半固定エアコンデンサーを組み合わせて発振回路を造りました受信機で3.5MHzをうけて、VFOとビートをとり、確かに発振しているのを確かめました。

 送信機の6L6の水晶をVFOの出力に切り替えると、水晶のときと同じように出力が取り出されて感激したものです。この時代のアマチュア局の多くはこのような構成で自作し、電波を出していたのでしょう。
トリオから、送信機TX-80?が発売されたのは2.3年も後でしたから・・・。

このようにして16才、高校2年生の夏休みに完成する事が出来ました。
また、その前に四国電波監理局に無線局申請も行いました。

アンテナを建設

 シャックですが、母屋から離れた納屋の端っこに牛が飼われており、10畳くらいの広さがあるのですが、この上2階部分に物置部屋があったのです。
いわゆる屋根裏部屋で、ここに古い畳を持ち込んで、寝泊まりをしていました。子ども時は、親から少しでも離れた所で寝起きすることが大変うれしいことなんです。これは誰でも経験することだと思います。

 ここに無線機を置くことにして、その外側にアンテナ支柱を建てることにします。
もう片方は30mくらい離れた所に、30mぐらいある大きな松の木が数本生えており、この松の木を支柱の代わりに使うことにしました。

アンテナ支柱の入手

 アンテナ支柱の内、片方は松の木を使うことにして、シャックの横に立てる支柱に孟宗竹を使うことにしました。これは親戚のアマチュア局のアンテナを参考にしました。その支柱は15mほどもある堂々としていて、その光景が目に焼き付いていたのです。

 15m程度の孟宗竹を手に入れるために、小松島市立江町の親戚の家(母の里)に貰いにいきました。
自宅から10km余り離れた山間部にあるのですが、好きなものを切っていいよと快諾してくれました。 
できるだけ高く、どっしりとした孟宗竹をさがして竹林を探し回りました。
目的に叶う孟宗竹を見つけ、切り倒し。枝を払い山から運び出しました。15m近くあったように思います。

 ここから自宅に運ぶのが大変でした、自転車の横にくくりつけて運ぼうとしたのです。昼間ではそんな長いものを引きずって運ぶと、道路をふさぐことになり大迷惑になりそうです。最もそのころは自動車なるものはほとんどなく、トラックかタクシーが時折、通る程度でしたから、大騒ぎにはならないでしょうが・・・・。

 結局、あまり人通りのない早朝に出発して運ぶことにしました。
なにしろ、15mもある孟宗竹を自転車の横に結わえ付け、それを押しながらの運搬です。距離は10km余りあります。
幸い、早朝だったためか、大騒ぎにもならず、警察もこずに3時間余りかかって自宅に無事到着しました。
いまから思うとよくやったなと自分でも感心します。アマチュア無線局の開局の期待。16才、高校2年生の若さだから出来たのでしょう。

アンテナ支柱を建設

 孟宗竹の先端に滑車を取付、ロープを取り付けて納屋のひさしに立てかけるようにして固定しました。
もう一方は30m以上ある松の木ですので、松の木に昇って15mぐらいの所に滑車を取付て、ロープを滑車に通して下に降ろしました。これでアンテナを張る支柱が出来ました。

アンテナを上げる

 JA5CS局の影響も大きいとおもいますが、物理的にもアンテナ支柱とシャックの位置から、ツエッペリン型のアンテナが最も適しています。アンテナ線は3mmぐらいのスズメッキより線を使いましたが、ツエッペリン型のアンテナの特徴であるハシゴフィーダーはビニール線を使い15cmの間隔を保つために割り箸を使いました。風雨に耐えられるようにとパラフィン(ローソクの蝋)を熱して液体にして、その中に浸けてしみこませるのでした。
ビニール線を使うので、この作業はなくてもいいように今では思っていますが。

 7MHzは半波長のダイポール、3.5MHzはロングワイヤーとして動作させることが出来るので今でも使いやすいアンテナだと思います。重い同軸ケーブルを使わなくてもいいし、支柱の際からフィーダーを引きもめるのも、いいですよネ。
最も同軸ケーブルなるものは当時はありませんでしたが・・・。

 アンテナ線、フィーダが出来たので、アンテナを上げました。
高さ14m、長さ20mのアンテナが空高く上がり、ハシゴフィーダーがゆらゆらと揺れています。感動の一瞬でした。

画像の説明

コールサインJA5IT

 アマチュア局の申請して1ケ月余り、待望のコールサインが決定されました。
まだ、正式の免許ではなく、車で言うと仮免許のようなものでしたが、コールサインが決まったので、電波は出すことは出来ました。
いわゆる「試験電波の発射」と言うものです。

 アマチュアと言えども、制度の上では何十KWの放送局と全く同じでした。
でも、正式免許ではないのでCQ CQ CQ こちらは・・・ と言うことは出来ません。
ハローテスト ハローテスト こちらは JA5IT 、「送信機テスト中です。どなたか聞いておりましたら、レポートをお願いします」 とかなんとか言って電波を出して、交信していました。同時に工事完了届けを提出しました。

工事落成検査

 ハローテスト ハローテストとやりながら実質通信すること2ケ月余り経ち、
工事落成検査に四国電波監理局から事務官(検査官)が、重いでかい測定装置を下げてやってきてくれました。周波数測定装置のようでした。
実際に電波を出して、申請通りの電波が出ているか、終段の電圧・電流を測定するのでした。

 はるばるアマチュア局の検査のために松山から小松島市和田島の僻遠地まで来られることに感謝しましたが、プロの無線局の検査と抱き合わせての日程であるように言っていました。当然と言えば当然でしょうか。アマチュアは1銭のお金もいらなかったのですから。

 それでも、タクシーを使う以外に重い測定器を下げてこの地まで来ることは出来ないのですから、タクシー代だけでもかなりいったのではないかと思います。
電波法規集とか、無線業務日誌、無線検査簿が整備さているか確認されて落成検査は終了しました。およそ1時間余りでした。

 無線検査簿に検査合格の印と、検査官の氏名、日付を書き込ん頂き、
晴れてCQが出せるようになりました。
CQ CQ CQ こちらは JA5IT のアナウンスが日本の空に飛んで行った感激の一駿でした。
アマチュア無線をやるぞと決心した日から1年余り、念願の達成でした。
時に、16才、高校2年生の秋だったと思います。

ローカル局

 晴れて落成検査に合格したので、7MHzをメインに日本中のハムとの交信に明け暮れました。空中線電力10Wでも、日本中のハム仲間と交信することが出来ました。
 お世話になったローカル局、JA5CS局、JA5HT局 JA5HVなどともよくラグチューをしたものです。後になって聞いたことなんですが、JA5IT の交信を聞いてびっくりしたそうです。

 と言うのは、私は元々無口で、引っ込み思案な少年でしたので、アマチュア無線を始めても、しゃべれないのではないかと心配していたのだそうです。
ところが、マイクを握ったら、雄弁とは行かないまでも立派に大先輩を相手に交信し出来ている。びっくりした~!とのことでした。

 見ず知らずの方々と臆せずに話が出来るようになったのは、ひとえにアマチュア無線のお陰であると思っています。今の私があるのもアマチュア無線のお陰です。
ありがとう アマチュア無線!!!。

 
 

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